「男は、なぜパンツが見たいのか」という謎について独り言。
男なら、見たいのです。
男は漏れなく、パンツが見たい。
学生のころ、男子高校生といえば、駅の階段の下に屯して、女子高生が階段を上って行くのを下から見上げていたものです。
女子も女子で、わざと見えるような座りかたをしたり、あるいは見えそうで見えない絶妙なポージングをすることがあります。
積極的に見せたいわけでもないが、どうせ見られるなら可愛い下着が良いに決まっている。パンチラ・ブラチラはお手のもの。中にはTバックを常用している猛者もおりましたし、今日はノーパン、とこっそり打ち明けてくる怪人もおりました。
そのくらいの年頃の娘は、セクシーと下品の境目が曖昧です。大人になった今、「なんてハシタナイ格好をしていたんだっ!」と恥ずかしくて情けなくて、もう笑うしかないという女性も少なくないのではないでしょうか。
露出を増やせばセクシーというわけでもない。むしろ着衣ゆえのエロスというものも存在します。例え、宇宙服を着ていても醸し出されるセクシーさというのは、女性の究極の力と言って良いでしょう。
さてパンツです。
若い男はとにかく女のパンツが見たい。
あ、パンツ見えてる。と言えばそちらを振り向きます。
「なんで男はパンツを見たがるの?」
という疑問が、若い女性から投げ掛けられることがあります。
私は考え、ひとつの結論に達しました。
「パンツがあるから見る」
です。
そこに山があるから、みたいな格好いいものではありません。
男が女のパンツを見る理由は、テレビがついてるから見る、と同レベルのものです。
居酒屋で、あるいは病院の待合室で。テレビがついていれば、10人中8人はそれを見ることでしょう。
特に好きな番組ではないし、音も小さくて内容はほとんどわからないけれど、ついていればなんとなく見てしまいます。
だから、パンツも、見えてるから、見る。
無いものは見えないし、あるものしか見えない。見えないものは見えず、見えるものが見える。
そんなパンツを女性が売ってくれるから、買う。パンツが好きだから、買う。
哲学の話ではありません。
赤信号なら止まる、青になったら渡る、パンツがあれば見る、おしりがあれば触る。
単純なことなのです。
ところで、「パンティ」という単語は、どこで誰が使うものなのでしょうか。少なくとも女性はパンティとは言わないし、男性も言わないように思います。小売業界でも、ショーツという単語は使いますが、パンティとは言いません。消費者も販売者も使わないということは、生産者が使う言葉なのでしょうか。
それともパンスト(パンティストッキング)という名称の中にだけひっそりと残る、古語なのでしょうか。
うーん、はたして。
まあ、どうでも良い話です。
パンツを見る見ないとは少し違う話ですが、男性は女性のどこを見るか?という話があります。
男性が見るのは、顔と胸です。
いや尻だ!
いいや脚だ!
という人は少し黙ってください。
胸よりも尻や脚が好きだ、というあなたは胸を見ませんか?そうではありませんね。見てしまうのです。
だって最も目線に近い、女性を女性たらしめる性的な部位なのですから。顔を見てから胸を見る、あるいは胸を見てから顔を見る。もしくは気を研ぎ澄まし八方目で全体をぼんやりと見る。
顔が良くて胸が残念だった場合は許されますが、胸が良くて顔が残念だと、その絶望感は大きいといいますから、まったく男というのはけしからん。
でもだからこそ、女は化粧をし胸を盛るのです。女だってそれを解った上での行動ですから、お互い様というものでしょう。
では、女性は男性の何を見るでしょうか。
「女性は男性のどこを見るか?」というと
「手!」というのが、例文通りの模範解答のようですが、ほんとうにその通りで、男の手を見ない女はいないと言って過言ないでしょう。
指がささくれ立っていれば、「痛そう」と思いますし、爪が汚れていれば「うえぇ」と思います。爪がデコボコしていると「栄養だいじょうぶ?」と思います。「噛む癖があるのかしら?」とも。指輪の有無や、毛の生え具合にも敏感です。
細く長い指をセクシーに感じることもあれば、大きくてゴツゴツした手に男らしさを感じたりもします。これは、私が思うに、清潔感うんぬんよりも、「男の指は自分の中に入ってくるもの」という認識が女性の中に無意識に、あるいは意識的にあるからだと思うのです。
自分の肌に触れ、髪を撫で、中に入ってくるものが、男性の指なのです。男性にとって、胸が女性を象徴する最も間近な性的部位だとすれば、女性にとって指は男性を象徴する見えている性的部位であります。
だからそんな指に対する評価は、女性が男性を評価する上でそこそこ重要なファクターのひとつなのでしょう。
手もそうですが、腕も、女性が見てしまう男性の部位のひとつです。男性の腕捲りが好きっ!という女性は少なくないと思います。手首から肘にかけての筋肉のつき具合とか、浮き出る血管の感じとか。その腕でギュッされたら、なんて想像をします。
もうひとつは、背中。
後ろから見たときに、背筋が伸びていて、肩幅が広く、かつ肩甲骨がゴリッと出ていたりすると、「まあ素敵」と思います。素敵なだけでなく、実際に、同じ体重・体格の男性二人を並べた場合、丸まった背中と、肩甲骨の出っ張った背中とでは、後者の方がスリムに見えるのです。猫背の男性陣は、すぐに改めましょう。
アゴを引いて頭のてっぺんをまっすぐ天井に向け、肩を後ろに引くと良いです。肩幅や背中を広く見せる為には、広背筋、三角筋、前鋸筋を鍛えましょう。
とはいえ、そこまでのマッチョを好む女性は少ないので、ほどほどが良いでしょう。細すぎず、太すぎず。ほどよく筋肉がついて引き締まっていれば好感がもてます。
男性が、細くて弱く柔らかい女性のそれを好むのと同じく、女性も自分の身体とは異なる男性の強い身体に惹かれるのです。
隣の芝は青い、あの葡萄は酸っぱい、ではないですが、自分とは違うものに人は魅力を感じるものです。
「男なんて、乱暴で自分本位で嘘つき!」
「女なんて、ワガママで自分勝手で意地が悪い!」
なんて愚痴を言いながらも、結局のところ、お互い違うために惹かれあってしまうのですから、男と女というのはまったく仕方のないものです。
つまるところ、女がいるから男は男なのであって、男がいるから女は女であるのです。
「それでも月はそこにある」と言ったのは誰だったか。
女が女である事実は疑いようがないけれども、例えば観測者たる男がここに存在しないとして、その女は果たして女として存在できるのでしょうか。
観測者のいないパンツがパンツであることを証明できないように、男のいない女の証明もまたできないのです。
男と女というのは、そんな風にくっついたり離れたりしながら、ぐるぐるぐるぐると世界を回します。今日も私たちは、恋をするのです。
相対性理論で有名なアインシュタインさんが、こんなことを言っておられました。
「男は、女が変わらないことを望む。女は、男が変わることを望む。よってお互いに失望することは不可避だ」
物理学者らしい、論理的な恋愛観ですね。男が女に望む、美しさや若さは必ず衰えてゆきますし、女が男に望む、経済力や男らしさは今後も向上することはないかもしれません。浮気性も治らないのかも。
けれども歳をとってみれば、男も女もバランスの良いところで釣り合っているのでしょう。その頃には女の顔や胸は年相応に変化していますし、男の指や腕の筋肉も年相応に変化しているのですから。
だから、今日も、世界中で、男と女は恋に落ちます。
さて、下世話なパンツの話から、高尚なアインシュタインの話へ着地したところで、独り言はおひらきです。
ご清聴ありがとうございました。ではでわ。