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この時、中国毛利氏と対陣中の秀吉は、すぐさま媾和して、神速飛ぶが如くに引き返し、摂津山崎の一戦に、光秀を討ち取つた。叛逆後わづか十三日にして、光秀は滅んだのである。三日天下の称がある所以である。光秀の叛逆は、下剋上の最後の場合だつたが、近世に近いのと、相手が大物であつただけに、主殺しと云つた悪名を、相当以上に受けてゐる。 独力で主君の復仇戦を遂げた秀吉の声望は、一時に加はつた。近畿の諸将は、先を争つて彼の麾下に集つた。織田家の宿将たる柴田勝家や滝川一益は、心中甚だ平かでない。やがて勝家は、賤ヶ岳で秀吉と戦つたが惨敗し、越前の北庄の本城に逃げこみ、遂に滅亡した。 天正十一年五月、秀吉は諸国から大木巨岩を集め、三十余国からの人夫を使役して、大坂に大規模な築城工事を起し、翌年の八月に殆んど竣工した。金城鉄壁、難攻不落の堅城であり、荘厳壮麗、天下統一の覇業を期する秀吉の理想を象徴した名城でもあつた。秀吉は築城と同時に、大都市建設の計画を立てて、堺や伏見から商人を移住させた。
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