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もし家康が応仁の乱時代に生れてゐたならば、精々細川か山名の一将で終つたかも知れない。又、信長が家康の時代に出てゐたら、叡山や本願寺を焼打したりして、日本のネロとして悪名だけを残したかも知れないのである。 叡山の山僧の跋扈は、歴代の朝廷も将軍も手を焼き、国政上の大患だつた。信長は、この末世の悪僧共が浅井、朝倉と通謀して彼の大志を妨げようとしたから、徹底的に焚滅し、永年の禍根を絶つたのである。新井白石の「読史余論」は、これを信長の大功の一にさへ数へてゐるのである。 信長は一切の旧きものの破壊に続いて、直ちに建設に着手してゐる。皇居の造営、首府たる京都市街の復興、検地、金山銀山の経営、朝鮮との外交政策等を見ても、決して単なる癇癪もちの荒大名ではない。頭脳的にも、創意に満ちた英雄であつた。彼の茶と学問の奨励は、元亀天正の荒武者たちの品性を高めるためであり、同時に、幼時から粗暴と云はれる自らの性行の反省修養のためであつたとも考へられる。
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