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信長は荒木村重との初対面に、刀で餅を刺して、壮士ならこれを啗へ、と云つて突き出したが、後年叛かれてゐる。秀吉は九州島津氏の猛将鬼武蔵(新納武蔵守忠元)との初対面で、主家のため最後まで戦つた忠節を褒め、当座の賞として薙刀を与へた。渡すとき、自分は刃の方を持ち、武蔵には石突の方を向けて出した。匕首を懐にしてゐた武蔵も、思はずハツと平伏して、薙刀を押し頂いたのである。 信長は畏服させたし、秀吉は悦服させた。そして家康は、智慧の力で服従させてゐる。 家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、「貞観政要」を印刷させてゐるし、その後も「吾妻鏡」を刊行させてゐる。さらに元和元年、大坂方と対戦中に、「群書治要」を刊行させてゐる。彼の学問好きは、学問の骨董的価値を賞翫するのではなくて、先人が残した治国平天下の要綱に対する研究心から発してゐるのである。秀吉に圧倒的な人気があるのは、よく分る。しかし、わが国二千年の伝統を捉へて、そこに自家の政治の根柢を求め、徳川三百年の太平をかち得た家康は、やはり近世的な大政治家たる資格の所有者と云はねばならないと思ふ。しかし、皇室に対する態度では、秀吉が一番よい。聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎へ奉つたことは、どんなに皇室の貴むべきかを当時の天下に知らしめたか分らない。信長も皇室の貴むべきことを心得てゐた。家康は、その点で一番劣つてゐる。
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