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これはすなわち骨を除散せしめた大蔵の顕著なる実例と申し奉るべきものであろう。これは至尊の御葬儀として、空前絶後の例ではあるが、しかしながらかくの如きの葬儀は、親王以下庶民の場合において、古来その例多かったものらしい。藤原吉野の奏言に、 昔宇治稚彦皇子は我が朝の賢明なり。此の皇子遺教して、自ら骨を散ぜしむ。後世之に傚ふ。然れども是れ親王の事にして、帝王の迹にあらず。我が国上古より山陵を起さざるは、未だ聞かざる所なり。 とある。宇治稚彦皇子とは稚郎子皇子の事であろう。皇子薨じて宇治山上に葬るとは日本紀にあるが、散骨の事は記紀その他の古書にかつて見当らぬ。しかしながら藤原吉野の当時には、皇子は散骨の式によって葬られたとの説の信ぜられておった事は疑いなく、そしてそれが流例となって、「後世之に傚ふ」とあってみれば、古来遺骨を散ずるの風のかなり行われていたことは、立派に承認せねばならぬ次第となる。そしてこれ令に所謂「大蔵」ではあるまいか。
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