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たしか明治四十一年の春であったと記憶しますが、私が始めて京都大学の講師として赴任した年のこと、同地の天部の篤志家故竹中庄右衛門翁の家庭を訪うて、その所蔵の古文書を見せてもらい、そのついでに翁の依頼に応じて、同町内の夜学校舎で、町内の有志のために、一場の講話を試みたことがありました。これが私のこの問題について、意見を発表した最初のものです。その後機会のある毎に、しばしばその差別すべからざる所以を宣伝したことではありますが、何分微力のもので、もとより世間の注意を引くほどのこともできませんでした。しかるに大正八年一月に至り、私は主として部落の歴史を研究し、かつそれを宣伝したいという目的を含めて、『民族と歴史』という個人雑誌を発行することになりました。
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