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「平素同情などという優越的態度を校長からして持っているから、そんな不心得な生徒も出るのだ」と、厳しくその「同情」の不心得を攻撃せられて、ついにその「同情」の語を取り消して、謝罪したというのであります。しかしこれはとんだ履き違いで、同情は必ずしも優越観念を伴う訳のものではありません。恐れ多いことではありますが、私どもは歴史を読んで、隠岐に遷され給うた後醍醐天皇にも同情し奉る。しかあるべからざるものが、世間の不条理なる差別待遇から、言うに忍びざるほどの不幸なる境遇に苦しんでいるのをみて、これに同情するになんの遠慮がいりましょう。世人はすべからくよく部落の実際を知って、その気の毒なる境遇に満腔の同情心を起し、彼らをしてここに至らしめたことについて、深く反省するところがなければならぬのであります。 真の融和は真の美わしい同情心から出立せねばなりません。頑強なる世間の差別待遇が、国家的に、社会的に、将来いかに重大なる結果を生ずべきかを憂慮して、高等政策的の意味からその解放をはかることはもとより必要で、はなはだ尊敬すべきことであるには相違ありませんが、しかも真の融和は、どうしても人道上の反省から起るところの真の同情心に基づかねばなりません。そしてその真の同情は、「よく知る」ということから導かれるのであります。私は私の永い間の体験から、あえてこれを断言して疑わないのであります。
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