分からぬは夏の日和と人心
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2013/12/07 09:27
更にまた三つの関所を踰えなければならぬ。こりゃまた新しい試験です。しかし第一の試験に及第しましたから、つまり三昧の示したところが当って居るのであるという信仰も出まして実に愉快でした。川に沿いだんだん南に降って行くこと二里半ばかりにして即ち
ピンビタンの兵営 に着きました。この日は雨が沢山降って居ったものですから下僕も私も非常に疲れたので、いよいよそのピンビタンの兵営に着きある兵舎を借りて宿りました。明日はこの兵舎の取調べは受けないでもよいという話。直にここからトモ・リンチェンガンに行き、その関所の長官より書付を貰い、その書付を証拠としても一つ向うのシナ人の守って居るニャートンの城門を通して貰うて、それからいわゆる第五の関所なるニャートンの本城の守関長の取調べを受け書面を貰うて、またピンビタンに引返して来なければならぬ。ところがピンビタンでは午前十一時から十一時半までの間でなければ書面を渡さぬということを聞きました。
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2013/12/07 09:27
第二の関門を通過す その原を離れ橋を渡り四、五丁行きましてチュンビーの橋に着きました。大分大きな橋で長さ二十四、五間、幅二間位あるが欄干も何もない。橋の東側の方には門が立って居り、その門の前に小さな家があって兵士がその門を守って居ります。旅行券はその兵士に渡すのですが、もしそこで胡乱な者と認めらるれば送り還されるという話です。そんな事はないでしょうけれども、兵士に遣る物を遣らないと送り還されるという風説は前から聞いて居りました
 そこへ着くと私の様子を見て「どこへ行かれるのか」といって執拗く尋ねましたが、下僕が長官に旅行券を渡しますと長官が「聞くに及ばぬ、早速通せ。」というのは旅行券の中に「この人に対しては決して一言も訝な事をいうたりいろいろの挙動をすることはならぬ。もしそういう事があれば後に酷い目に遇うからかれこれ言わずに早速通せ」という命令があるからで、何の故障もなくその門を通してくれた。まあこれで二つの関所を通り脱けた訳です。

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2013/12/07 09:25
日本の茶漬を喫喰す 兵隊町のある兵舎に着き昼飯を注文致しますと、米があるからといってわざわざ米の御飯を炊いてくれ、その他いろいろシナ流の御馳走を出してくれたけれども、豚やヤクの肉類が多いから下僕は悦んで喰いましたが、私はこれは喰わぬからといって断りますと、菜漬の大変うまいのをくれた。この時始めて日本の菜漬を喫べるような味が致しました。そこでは別に咎めも何もせぬ。ここの城はなかなか堅固に出来て居りまして、その南方に当り両脇の山に沿うて大いなる石塀が建てられてありその真中に門が二つあるです。その門には毎日六時に開けて午後六時に締めるという書付が貼ってあります。
 その通りやって居るかとその辺の人に聞くと、それは非常に確実なものでたまたま兵士などが何か特別な急用でも出来るとその届けをしてあけて貰うことがあるけれども、その外は夜分など往来すると猛獣に出遇う恐れがあるから余り往来させないという事です。ちょっとした橋を渡り半里ばかり登形の原を進み、それから元の川に沿うて森林を降り半里ばかりある原に出ますと、美しい草もあり馬も沢山居ります。。看護師 転職

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2013/10/29 11:06
 しかしその梵語の経文を訳した方々は決して嘘をつかれるような方でないからして、これには何か研究すべき事があるであろう。銘々自分の訳したのが原書に一致して居ると信じて居られるに違いあるまい。もし然らばそんなに原書の違ったものがあるのか知らん、あるいはまた訳された方々がその土地の人情等に応じて幾分か取捨を加えたような点もありその意味を違えたのもあるか知らん。何にしてもその原書に依って見なければこの経文のいずれが真実でいずれが偽りであるかは分らない。これは原書を得るに限ると考えたのです。
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典はあるけれどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。しかるにその大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡を絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居るという。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお欧米の東洋学者の説によるとチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。その説はほとんど西洋人の間には確定説のようになって居ります。

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2013/10/29 11:06
明治三十七年三月上澣河口慧海誌す


第一回 入蔵決心の次第

チベット探検の動機 私がチベットへ行くようになった原因は、どうか平易にして読み易い仏教の経文を社会に供給したいという考えから、明治二十四年の四月から宇治の黄檗山で一切蔵経を読み始めて、二十七年の三月まで外の事はそんなにしないで専らその事にばかり従事して居りました。その間に私が一つ感じた事があります。それは素人にも解り易い経文を拵えたいという考えで、漢訳を日本語に翻訳したところが、はたしてそれが正しいものであるかどうか。サンスクリットの原書は一つでありますが漢訳の経文は幾つにもなって居りまして、その文の同じかるべきはずのものがあるいは同じのもあればまた違って居るのもあります。甚だしきは全くその意味を異にして居るのもあり、また一つの訳本に出て居る分が外の本には出て居らないのもあり順序の顛倒したのもあるというような訳で種々雑多になって居ります。
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2013/10/29 11:05
 されど、余にも耳目の明ありて専門の宗教上以外、社会学上に、経済学上に、あるいは人類に無上の教訓を与うる歴史の上において、その幼稚なる工芸中別に一真理を包摂する点において、地理上の新探検について、動植物の分布について等その見聞せるところも尠なからざりしかば、帰朝以来、これら白面の観察を収集して、梓に上さんと欲せしこと、一日に非ざりしも、南船北馬暖席に暇なく、かつ二雪霜の間に集積せるところは、尨然紛雑し容易に整頓すべからずして、自ら慚愧せざるを得ざるものあり。日ごろ旅行談の完成せるものを刊行して大方の志に酬いよと強うる友多し。余否むに辞なし。すなわちかつて時事新報と大阪毎日新聞とに掲載せしものを再集して梓に上せて、いささか友の好意に対え、他日をまちて自負の義務を果たさんと決しぬ。
 チベットは仏教国なり。チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、蒙昧なる蛮人とあるのみ。仏教の社会に及ぼせる勢力の偉大なると、その古代における発達とは、吾人の敬虔に値いするものなきに非ず。この書この点において甚だしく欠けたり。これ余の完全なる旅行談を誌さんと欲して努力せし所以。しかれども事意と差い容易に志を果たす能わずあえて先の所談を一書として出版するに至る、自ら憾みなき能わず。即ち懐を述べて序文に代う。

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2013/10/29 11:05
 チベットは厳重なる鎖国なり。世人呼んで世界の秘密国と言う。その果たして然るや否やは容易に断ずるを得ざるも、天然の嶮によりて世界と隔絶し、別に一乾坤をなして自ら仏陀の国土、観音の浄土と誇称せるごとき、見るべきの異彩あり。その風物習俗の奇異、耳目を聳動せしむるに足るものなきに非ず。童幼聞きて楽しむべく、学者学びて蘊蓄を深からしむべし。これそもそも世界の冒険家が幾多の蹉跌に屈せず、奮進する所以なるか。
 余のこの地に進入せしは勇敢なる冒険家諸士に倣うて、探検の功を全うし、広く世界の文明に資せんとの大志願ありしに非ず。仏教未伝の経典の、かの国に蔵せられおるを聞き、これを求むるの外、他意あらざりしかば、探検家としての資格においては、ほとんど欠如せるものあり。探検家として余を迎えられたる諸士に十分なる満足を供する能わざりしを、深く自ら憾みとす。

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2013/10/29 11:05
 つい近頃のことである、京都帝大経済学部の教授石川興二君は、その著書に禍されて休職になつたが、――その著書といふのも、両三年前、著者自ら市場より引上げ且つ絶版に附して居たものである、――元来同君の如きは、盛んに国体主義を振り廻はし、天皇中心の思想を宣伝これ努めて居たのであるのに、偶※資本主義制を不用意に非難し過ぎたといふ廉を以て、忽ちこの災に遇つた。問題にされた著書の如きも、嘗て発売禁止にもならず、暫くの間無事世上に流布されて居たものであるが、一朝にしてこの災に遇つた筆者は、さぞかし意外とされたであらう。これに比べれば、私などは、ただ「断片」一つを書いただけでも、その当時已に馘首されてゐて然るべきであつたのに、その後引続き七年間も大学に居て、相変らず思ふ存分のことを書き、大学をやめてからも、勝手放題のことを仕出かしながら、今も尚ほ無事に生きながらへてゐて、この世界大乱の時節に、貧乏はしながらも悠々自適、気の向くままに時にはこんな思ひ出など書きながら、余生を楽むことが出来ると云ふのは、考へて見ると、実に過分の幸福と謂はねばならぬ。さう思ひながら、私はここにこの思ひ出、第十一の筆を擱く。

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2013/10/29 11:04
しかし如何なる場所で余は死ぬるにしろ、――絞首台にしろ、流刑地にしろ、その他如何なる場所であつても、――余はただ一つの考を以て死にゆく。「許せ我が人々! 我の汝に与へ得るところのものは、僅に我がいのち、ただこれしかない。」かくて余は、嘗て詩人の歌ひけるやう、「□□はよろめき倒れるであらう、そして自由の太陽が、ロシヤの全平野に上ぼるであらう。」といふ日の来るべきことの、固き信念を以て死にゆくであらう。」とか、「生活そのものが私に次の如く教へた、……汝は銃剣を以て思想を刺し殺すことが出来ないと同様に、汝はまた思想のみを以て銃剣の力に対抗することも出来ない筈だ。」とか云ふやうな言葉もある。思ふに、どこの誰が言つたことにしろ、こんな言葉を活字に附することは、今は何人にも絶対に許されぬであらう。二十余年も以前のことだとは云へ、私はそれを敢てしながら、遂に聊かの咎めをも受けなかつたのである。この頃の人に話したら、恐らく不思議に感ずるであらう。

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2013/10/29 11:04
 さて以上の思ひ出を書き了へて、私のつくづく思ふことは、私は実に運の善い男だと云ふことである。
 もう今では紙の縁が黄いろくなつてゐる当年の『改造』を出して見ると、「断片」の中には、一九〇四年に内務大臣シピアギン、ウーファ知事ボグダノウ※チ、カールコフ知事オボレンスキー公などの暗殺を計画し指揮した青年テロリスト、グリゴリ・ゲルシュニーが死刑の宣告を受けた場合のことが、最初の方に誌されてゐるが、(このゲルシュニーは一旦死刑の宣告を受けたけれども、その後脱獄に成効し、日本、米国を経由し、仏国に渡つてから病死した。彼が長崎から東京に行つた折には、日本の社会主義者は彼の名誉のため厳粛な歓迎会を催し、また彼が横浜を立つ前には特に送別会を開いた。)私はそこへ、「暗殺さるる者よりも、暗殺する者の方が、より鋭き良心の所有者たること在り得るを注意せよ。」といふやうな感想を書き加へてゐる。また一九〇六年、二十八歳の妙齢を以て断頭台の露と消えたコノプリアンニコーファといふ婦人の裁判廷における陳述の中には、「汝等は余に死刑を宣告するであらう。
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