分からぬは夏の日和と人心
365Ryou 
Firefox

2014/05/23 23:04
トラホームの問題は昨日も結論が一致しました。清潔にすると気持がいゝ、清潔であるといふことに対して快感を感ずるといふ訓練が行はれなければ、決して清潔にしようといふ意欲も起らない。衛生を重んじ、体を丈夫にするために清潔にしようといふことは、人間としては殆ど実行出来ないことではないかと私は思ひます。
日常生活を振りかへつて考へて見て、自分の体のためだから、かうしようといふやうな頭の働かせ方をすることは、甚だ稀であります。たゞ、さうするのが自分の好みに叶ふ、その方が気持がいゝからやつてゐることが、たま/\衛生に叶ふといふことが多いのであります。むしろどうかすると、衛生には悪いけれどもこの方が気持がいゝといふことを往々にしてやつてゐるのであります。
364Ryou 
Firefox

2014/05/23 23:03
昨日も熊谷議長(熊谷岱蔵氏)と話をしてゐる間に、農山村のトラホームの話が出ました。トラホームが農山村に非常に多い原因は、一般に衛生知識の不足にあるやうに考へられてをります。それで、一つ手拭を家族同志で使つてはいけない、或は手を清潔にしなければいけないといふやうな知識が普及すれば、トラホームが減少する、乃至は無くなるといふ考へ方があります。従つて対策については、先づ衛生知識の普及といふ努力が今日最も行はれてゐると思ふのでありますが、決してそれだけで農村乃至一般国民の衛生状挙が向上するわけではないのであります。
363Ryou 
Firefox

2014/05/23 23:03
私はその話を聞き、その画家が別に特別な直感力を持つてゐたとは思はない、またその巡査が職務に対して忠実でなかつたとも思はないのであります。けれどもその巡査と画家の違ふところは、巡査が余りに巡査として専門家でありすぎ、画家はたゞ単なる常識のある人間であり社会人であつた点にあると思ふのであります。
文化運動も専門家の運動でありすぎると、この巡査のやうなことになる惧れが非常にあるのではないかと私は考へるのであります。
362Ryou 
Firefox

2014/05/23 22:57
画家は、巡査が恐らく自分の注意を実行しないだらうといふことに気づいて、直ぐ宿のものに握り飯を作つて貰ひ、後を追ひかけた。そしてその時の行倒れの所へ行き、携へた握り飯を出してやりました。画家の直感の通り、その行路病者は空腹に堪へかねて倒れてゐたのであります。行路病者は握り飯を受取ると、喜んでガツ/\食べてしまつた。支度をして後から駈付けてきた巡査は、その様子を見て非常に吃驚しました。兎も角巡査は、漸く少し元気を取もどした行路病者を交番に連れて行つて保護をしたのであります。
翌日、彼は画家の所へやつて来、「昨日君が握り飯を持つて行けといつた時には、自分は何のことをいつてゐるのか、意味が分らなかつた。それでそのまゝ出かけて行つたが、あの時に自分は、行路病者が出た場合に警察官として如何なる規則で、如何に取扱つたら誤りがないかといふことばかりを考へながら出かけて行つた。ところが、君はどういふわけか知らんが、直ぐ握り飯だといふことに気がついた。果してその行路病者は空腹のために倒れてゐた。自分は巡査として、どうして君のやうに、行路病者といふ言葉をきいて、直ぐ頭が働かなかつたか。それを思ふと、つく/″\自分が嫌になつた。」――つまり自分は適任者でないと、しみ/″\告白したさうであります。
VALID SEO いまどきのSEO対策 ウィルゲート ヴォラーレ
361Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:03
私自身についていへば、福田君のチェエホフ論にはチェフの戯曲を最もよく理解するものゝ深い洞察があり、また「最後の切札」は、戯曲作家の皮肉な内省を主題とする「観念の舞台化」ともいふべき大胆な試みに少なからぬ興味を覚えたのであるが、そのことは、今度の「キティ颱風」を前にして、なにか意外なやうでもあり、また当然のやうでもある、不思議に混乱した感慨を催させる原因となつた。
福田君は、事実、「キティ颱風」に於ても、尋常でない意図をその作劇の上に示さうとしたことはたしかである。例へば、人物の関係をことさら複雑に入り組ませたり、事件の中心を次第にぼかし、絶えず何か起りさうで起らず、起りかけてはいつの間にか消える、言はゞ事件をはらむ雰囲気の波状形の起伏の連続のなかに、一群の人物の心理と行動とを絶えずダブらせながら暗示的に誘導するといふ、まつたく常識的なドラマの逆を行く手法を用ひてゐる。
360Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:03
問題の要点がわきへ外れたが、近頃、表現派の戯曲を書く人が日本にも出て来たやうである。酔払ひや狂気の囈言を真似ても、それや、かまひはしませんが、余程上手に真似ないと、つい正気で物を云つてしまつたりなどする。正気で物を言ふと、つい人にも解つて、それが面白くなければ「不可解の魅力」も生じないわけで、一寸困るのです。
福田恆存君の戯曲「キティ颱風」を読んで非常に面白かつた。
いろいろな先入観をもつてこの作品を読むひともあるだらうが、私もその一人であつたことを告白する。その第一は、福田君が自他ともにゆるす批評家であるといふこと、第二は、既に幾月か前に、甚だ風変りな戯曲「最後の切札」を発表し、いささか鬼面人を脅かすかの如き野心を示したこと、が、その理由として挙げられる。
359Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:03
舞台装置は、「思ひつき」としては新しいものでないと云へばそれまでゞあるが、また、あれが表現派だと云つてしまへばそれまでゞあるが、兎に角、現在の日本には珍らしい、そして、意義のある試みである。所謂「真似事」の域を脱してもゐるし、効果も十分である。これまた、趣味の問題になると別に云ひ分はある。が、あれから「新しい美」が感じられなければうそだ。侮つた意味でなく、民衆の好むべき美がある。子供にも解る美がある。そして、それは日本では新しいものだ。
僕は前に、「どん底」の演出を見て、築地小劇場の出発点はこゝだと云ひ張つた。今度「朝から夜中まで」を見て、築地小劇場の出発点はこれでもいゝと思つた。
日本の新劇が、少くとも演出の上で、此の小劇場から色々の暗示を受けることは好ましいことである。少し場数でも多いと、上演不可能ときめてかゝる劇場主などは、舞台監督などは、一度、「朝から夜中まで」を見るがいゝ。序だから云ふが、ピトエフといふ舞台監督は十五場や二十場の脚本は、平気で舞台にかける。やり方一つですよ。
358Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:03
実は築地小劇場で、「朝から夜中まで」を観たんです。
第一あの脚本であるが、銀行の出納口からホテルの一室までは、あの露骨さがいやだつた。処が、雪の野原を過ぎて出納係の家に来ると、あの「詩」がある。僕にも解る「詩」がある。佳い「詩」だと思つた。競馬場も貴賓とやらが来るまでは無難。踊り場の空気もいゝ。救世軍の会堂は、傑れた諷刺である。僕は、こやつ凡庸作家に非ずと思つた。解らない白がざらにある。翻訳では無理なエツキスプレツシヨンも多からう。工夫の余地もあらう。がその解らない処にも例の魅力がやつぱりある。軽蔑ができない。尤も趣味といふことになると、これは別だ。
次に、演出。やはり初めの二場は不満が多い。あとがだん/″\佳くなる。あれだけ「雰囲気」が出せれば申分はない。
357Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:03
解らない、然し、何だか、かうふわつと来るものがある。少しぢれつたい、が、悪い気持ちぢやない。
芸術の鑑賞が、常にこれでは少々心細いが、僕はたしかに、今日まで、かういふものにぶつかつたことがある。
処が、さういふものでも、処々はつきり解る部分がないではない。そして、此の解る部分の魅力が、解らない部分の魅力をかなり左右することにも気がついてゐる。
僕は、此の解らない部分の魅力といふやつが、相当に好きなんだ。その代り、解る部分がつまらなければ、解らない部分は一向に魅力をもたない。まあ、さういふことになる。信用といふものは恐ろしいものですね。
356Ryou 
Firefox

2014/05/20 19:02
私は性急に事を運ばうと考へてゐるわけではない。ある医家の初期の肺患者に云つたごとく、
「今急にどうなるといふ病気ではありませんが、たゞ、知つてゐるといふことが大事です」
今は、誰が悪い彼が悪いと云つてゐる時期ではなく、何処に悪いところがあるかといふことをはつきり突きとめ、一国民全体が、一斉にその病根を封じてしまふこと、これはもう道徳的にいふ義務や犠牲ではない。われわれの好みに適つた伝統的な「たしなみ」である。(昭和十五年六月)