分からぬは夏の日和と人心
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2013/12/14 20:22
ある日、モーティは、朝早くからお坊ちゃまと一しょに出かけたきり、夜になっても帰って来ませんでした。その日は、陸軍の大演習で朝から晩まで飛行機が、とんぼのように空を飛びまわっていましたので、誰でもお家にじっとしていられないような日でした。ですから、モーティも、そんなことで夢中になっているのだろうと思っていましたが、あくる日になっても、まだ帰って来ませんでした。
二人の自動車は一晩中寝ずに待っていました。ピリイは、あんまり泣いたもので、放熱器の水がすっかりなくなってしまいました。で、ひどく頭がほてって、怒りっぽくなってしまいました。次の日ピリイに乗ってお出かけになった奥さまは、行く先々でピリイの頭へ、バケツに何ばいも何ばいも水を、ぶっかけなければなりませんでした。
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2013/12/14 20:22
ポピイとピリイとは、それはそれはモーティを可愛がりました。モーティは、気転のきいたいい子でしたが、あんまり大事にされるのでだんだん甘ったれて来ました。しまいには少々つけ上って来ました。自分が、すばしっこいのを自慢にして口のきき方までが、ぞんざいになって来ました。あんまり、出すぎたいたずらをして、叱られた時などにも、あべこべに腹を立てて、お父さまたちに向って「ボロ自動車」などと悪口をいうようになりました。そのたんび親たちは顔を赤くしました。
モーティは、ガソリンや水を、うんと飲んで、ずんずん大きくなりました。で、自分は、もう大人になったつもりで、外へ出かけるのにも黙って出るようになりました。たまには、夜おそくなってから帰って来るようなこともありました。
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2013/12/14 20:20
私のリラックス方法は「入浴」 "私は「入浴」が大好きです。
とくに「寒い季節の入浴」は大好きです。
場所は家のお風呂でもいいですし、銭湯でも温泉でも何処でもOKです。
お湯に浸かることがとにかく好きで、1日に2回もお風呂に入る日もあるぐらいで、ともかくお湯に浸かっていると、とてもリラックスすることができます。
お湯の温度は41℃くらいが私には丁度いいですね。
それ以上温度が高いお湯に入ると、汗が出過ぎてのぼせてしまいますし、昔聞いた話によると心臓にも悪いそうなので、湯の温度を高くし過ぎないように気をつけています。
そしてやっぱり毎日の「入浴剤選び」も楽しみです。
最近のお気に入りは「バラの香り」がする入浴剤で、お湯の温かみとバラの香りの両方で、毎日癒されいます。"
エビログ
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2013/12/13 13:57
「やあ!」青木は、しわがれて震える声を出した。雄吉は、さっきから青木に対して、どんな態度を取るべきかを、必死に考えていた。青木の出京! それは彼にとって、夢にも予期しないことだった。しかも、その青木と不用意に、銀座通りで出会すなどということは、彼の予想すべき最後のことであった。彼は狼狽してはならないと思った。彼は過去において、青木と交渉したことによって、自分の人生を棒に振ってしまうほどの、打撃を受けていた。その打撃を受けてから六年の間に、彼は、そのためにどれほど苦しみどれほど不快な思いをしたか、分からなかった。が、その苦痛と不快とに堪えたために、彼は今ではその打撃をことごとく補うことができた。今では、青木との交渉によって負うた手傷を、ことごとく癒すことができたと思っている。しかし、今でも、過去における苦痛と不快との記憶は、ともすれば彼の心に蘇って、彼の幸福な心持を掻きみだしていった。そして、その打撃から、起因するすべての苦しみを苦しみ、すべての不快を味わうごとに、彼は青木を憎みかつ恨んだ。そして、今ようやくそれらの打撃から立ち直って、やや光明のある前途が拓かれようとする時に、昔の青木が、五、六年も見たことのない青木が、彼の平静な安易な生活を脅すごとく、彼の前に出現したのである。
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2013/12/13 13:57
初めて青木を発見したのは、ほんの二、三間前であったのだから、青木が雄吉に近よるのは、二、三秒もかからなかった。雄吉の心持にも劣らないほどの大きな激動が、青木の心のうちにも、存在しないはずはなかった。その上、青木は雄吉のほとんど仇敵に対するような、すさまじい目の光を見ると、心持瞳を伏せたまま近よった。
二人は目を見合わした。雄吉の目は相手に対する激しい道徳的叱責と、ある種の恐怖に燃えていた。青木の目は、それに対して反抗に輝きながら、しかも不思議に屈従と憐憫を乞うような色を混じえていた。二人はそれでも頭を下げ合うた。
「やあ!」雄吉は、硬ばったような声を出した。
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2013/12/13 13:56
彼は、ともかくも晴れやかな浮揚的な心持で、歩き馴れた鋪道の上を歩いていた。彼の心には、今のところなんの不安もなければ憂慮も存在していなかった。まったく安易な、のうのうとした心安さであった。他人が見たら、彼は少し肩をそびやかしていたかも知れぬほどの得意ささえ、彼の心のうちに混じっていた。彼が、銀座で有名な△△時計店の前まで来た時であった。彼は、ふと自分の方へ動いてくる群衆の流れのうちに、ある一つの顔を見出した。見覚えのある顔だと、彼は思った。それはほんの一瞬時だった。青木だ! と気がつくと、彼の脚はぴったりと鋪道の上に釘付けにされたように止まってしまった。が、釘付けにされたものは、彼の脚ばかりではなかった。彼のすべての感情が、その瞬間動作を止めて心のうちで化石してしまったように思えた。彼のその時まで、のんびりとしていた心持が、膠のように、急に硬着してしまった。彼の心全体が、その扉をことごとく閉じて、武装してしまったという方が、いちばんこの時の心持を、いい現しているかも知れなかった。雄吉は、身体にも心にも、すっかり戦闘準備を整えて、青木の近よるのを待った。
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2013/12/13 13:56
銀座のカフェ××××で、同僚の杉田と一緒に昼食を済した雄吉は、そこを出ると用事があって、上野方面へ行かねばならぬ杉田と別れて、自分一人勤めている△町の雑誌社の方へ帰りかけた。
それは六月にはいって間もない一日であった。銀座の鋪道の行路樹には、軽い微風がそよいでいたが、塵をたてるほど強いものではなく、行き交うている会社員たちの洋服はたいてい白っぽい合着に替えられて、夏には適わしい派手な色のネクタイが、その胸に手際よく結ばれていた。また擦れ違う外国の婦人たちの初夏の服装の薄桃色や水色の上着の色が、快い新鮮を与えてくれた。
雄吉は食事を済した後ののんびりとした心持に浸っていた。その上、彼はこの頃ようやく自分を見舞いかけている幸運を意識し、享楽していた。長い間認められなかった彼の創作が、ようやく文壇の一角から採り入れられて、今まではあまり見込みの立たなかった彼の前途が、明るい一筋の光明によって照され始めていた。彼の心にはある一種の得意と、希望とが混じりながら存在していた。ことに、彼は自分の暗かった青年時代を回想すると、謙遜な心で今の幸運を享受することができた。
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2013/12/13 13:56
此の戦いに於て、男をあげたのは家康で、信長の為めに、粉骨の戦をなして、恩をきせると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の社稷はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。
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2013/12/13 13:56
信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かないので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。忍人信長としては大出来である。
浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の中を馳け破って、居城、佐和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤内蔵助、「磯野の今日のふるまいは、凡人に非ず、追うとも易く討ち取るべきに非ず」とて逐わしめなかった。
此の戦いは、元亀元年六月二十八日だから、未だ真夏と云ってもよい位だから、勝った信長の軍勢も、暑さで、へとへとに疲れていただろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合して江北に於ていくらか策動しているが、併し戦前の勢に比べると、もう見るかげもなくなっていた。
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2013/12/13 13:56
竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人諫めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。