分からぬは夏の日和と人心
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2013/12/20 20:29
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい。」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」
 次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士の家の前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見なれた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起しました。すると、そこへもう一人、見なれた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキイでした。ベッキイはすっかり小間使になりすまして、いそいそ若い御主人に従い、膝掛や手提を持って、馬車の処まで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキイは血色もよく、むっちりと肥っていました。

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2013/12/20 20:29
 セエラは語り終ると、こういいました。
「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」
「どういうことをしてあげたいのだね? 女王殿下。何でも、お好きなことを遊ばしませ。」
 セエラは、ややためらいながらいいました。
「私、あの――私には大変なお金があると仰しゃったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こういおうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が――殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付は、私の方に廻してくれって。――そんなことをしてもいいでしょうか?」
「いいとも。早速、明日の朝行って来たらいいだろう。」
「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味っているでしょう。ひもじい時には、何かつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」

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2013/12/20 20:27
『我名はボリス。プリンセス・セエラの僕。』
 印度紳士の一番好んだのは、襤褸を着た宮様の思い出でした。大屋敷の人達や、アアミンガアドやロッティの来る日も、賑かで愉快でしたが、セエラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり話し合ったりする時間は、何か二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。
 ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。
「セエラ、何のつもりになっているの?」
 セエラは頬をぽっと輝かせました。
「こういうつもりだったの。――こういうことを思い出していたのよ。ある日大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」
「でも、たいていの日はひもじかったんじゃアないのかい?」印度の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」
「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」
 セエラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。 キャバクラ 求人
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2013/12/19 15:55
 気が付くと自分の立って居る所から、一町ばかり向うに、お西様の勅使門を十倍にもしたような大きさの御門が立って居た。おかんは、その門が屹度極楽の入口だと思ったので、急いで門の方へ行って見た。門の方へ行って見ると、門の扉は八文字に開かれて居た。おかんはオズ/\とその大きく開かれた御門の中に入った。御門の中の有様は、有難い御経の言葉と寸分違って居なかった。直ぐ眼前に広がって居るのは、七宝池の一つに違なかった。水晶を溶かしたような八功徳水が、岸を浸して湛えて居る。しかも、美しい水の底には、一面に金砂が敷かれて、降りそゝぐ空の光を照り返して居る。水を切って、車輪のように大きい真紅や雪白の蓮華が、矗々と生えて居る。水に※んでは、金銀瑠璃玻璃の楼閣が、蜿蜒として連って居る。楼閣をめぐっては、珊瑚瑪瑙などの宝樹が、七重に並んで居る。宝樹の枝から枝へと飛び交うて居る、色々様々な諸鳥は、白鵠、孔雀、舎利、伽陵頻迦、共命などの鳥であろうと思った。おかんは極楽を一目見ると、嬉しさに涙が止め度なく流れて来た。極楽に往生し得た身の果報が、嬉しくて堪らなかった。御門跡様を初めお寺様のお言葉の真実が、身にヒシヒシと感ぜられた。よくも、弥陀如来の本願を頼み奉ったものだと思った。
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2013/12/19 15:55
 おかんのそうした望みは、到頭実現する時が来た。そうなるまで、幾十里歩いたか、幾百里歩いたか、それとも幾千里と云う長い道路を歩いたか判らなかった。兎に角、行手のほの/″\した闇が、ほんの僅かずつ、薄紙を剥ぐように、僅かずつ白み始めて来た。おかんは、そうなるに従って、尚更足を早めた。老の足の続くかぎり一散に歩き続けた。一歩は一歩ずつ、闇が薄れた。闇の中に、乳白色の光が溢れるように遍照するのを感じた。初は不透明であった光が、だん/\透明になって行くと、それが止め度もなく、明るくなって行って、日輪月輪の光を搗き交ぜたよりも、もっと強い光の中におかんは、ふら/\と立って居る自分を見出したのである。眼がくら/\して、最初は物の相が、ハッキリと見えなかった。が、漸く眼を定めて見渡すと自分の立って居る足下には、燦爛と輝く金砂と銀砂が、鴨川石か何かのように惜しげもなく撒き散らされて居るのを見た。頭上を見上げると、澄み渡った大空の金のさゝべりをとった紫雲が、靉靆と棚引き渡って居た。おかんは、到頭お浄土へ来たのだと思うと、胸の底から嬉しさがこみ上げて来た。

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2013/12/19 15:55
 何等の区劃もなく無限に続いて居る時と道とを、おかんは必死に懸命に辿り続けるだけであったが、どんなに道が長く続いても、勇ましく進むことが出来た。周囲は暗かった、背後を顧みると累々とした闇が重って行く。が、前途だけには、ほの/″\とした光があった。どんなに、此道が長く続いても、何時かは極楽へ行けるのだ。有難い御説教で、幾度も聞かされた通りお浄土へ行けるのだ。配偶の宗兵衛にも十年振に、顔を合わせることが、出来るのだ。そう思うと、おかんは新しい力を感じて来て老の足に力を入れて、懸命に歩き続けるのだった。闇とも雲とも土とも分らない道の上で何日経ったか判らない、いや日を数えるのでなく月を数えても、幾月経ったかも判らない、いやもう一二年も経って居るのかも知れない。歩きながら、そんな事を考えたほどおかんは歩き続けた。長い/\道だった。が、おかんは勇気を失わなかった。こう、根よく歩いて居る中に、何時か極楽へ着くのに違いない。そうした望みだけは、決して失わなかった。
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2013/12/19 15:54
 到頭冥土へ来たことだけはハッキリと意識された。が、極楽へ行く道だろうか、地獄へ行く道だろうかと、おかんは歩きながら、疑って見た。が、そうした疑惑は、ふと足を止めた時などに、閃光のように頭を掠めるだけで、弥陀のお願を信じ切って居るおかんは、此の道が極楽へのたゞ一つの道である事を信じて居た。彼女は、口に『南無阿弥陀仏々々』と、繰り返しながら、一心不乱に辿った。長い/\道であった。それと同じように、長い/\時であった。薄闇の中には、夜も昼もなかった。気が付かない中に、幾何歩いて居たのか、分らなかった。気が付いてからも幾何歩いたかも知れなかった。距離で計ることも出来なかった。時で計ることは尚更出来なかった。たゞ一生懸命に、長く長く歩いたと云う記憶だけがあった。不思議に足も腰も疲れなかった。現世に生きて居た頃には、お西様へ往復して帰ると家の敷居を跨ぐのにさえ、骨が折れたほどだった。が、今では不思議に、足も腰も痛くない。
 幾何歩いたかも、丸切り見当が立たなくなってしまった。たゞぼんやりと、生きて居た頃の時間に引き直せば、十日かそれとも半月も歩いたかも知れないと思った。不思議に少しも空腹を感じなかった。幾何歩いても、足も痛まなければお腹も空かなかった。従って、そう云う事に依って歩いた道程を計る訳にも行かなかった。たゞ薄闇の中を、前途の薄明を頼りにして、必死に辿るより外には、仕様がなかった。
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2013/12/19 15:54
 再びほんのりとした意識が、還って来る迄に幾日経ったか幾月経ったか、それとも幾年経ったか判らなかった。ただおかんが気の付いた時には、其処に夜明とも夕暮とも、昼とも夜とも付かない薄明りが、ぼんやりと感じられた。右を見ても左を見ても、灰色の薄闇が、層々と重って居た。足下にも汚れた古綿のような闇があった。それを踏んで居るおかんの足が、何かたしかな底に付いて居るのか何うかさえ、彼女には分らなかった。たゞ行手にだけは、右や左や上下などよりも、もっとあかるい薄闇があった。ほの/″\とした光明を包んだような薄闇があった。おかんは左右を顧みないで、たゞ一心に行手を急ぐより外はなかった。
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2013/12/19 15:54
 おかんは、浄土に対する確かな希望を懐いて、一家の心からの嘆きの裡に、安らかな往生を遂げたのである。万人の免れない臨終の苦悶をさえ、彼女は十分味わずに済んだ。死に方としては此の上の死に方はなかった。死んで行くおかん自身でさえ、段々消えて行く、狭霧のような取とめもない意識の中で、自分の往生の安らかさを、それとなく感じた位である。
 宗兵衛の長女の今年十一になるお俊の――おかんは、彼女に取っては初孫であったお俊を、どんなに心から愛して居たか分らなかった――絶え間もない欷り泣の声が、初は死にかけて居るおかんの胸をも、物悲しく掻き擾さずには居なかった。が、おかんの意識が段々薄れて来るに従って、最愛の孫女の泣き声も、少しの実感も引き起さないで、霊を永い眠にさそう韻律的な子守歌か何かのようにしか聞えなくなってしまって居た。枕許の雑音が、だん/\遠のくと同時に、それが快い微妙な、小鳥の囀か何かのように、意味もない音声に変ってしまって居た。その中に、鉦の音が何時とはなく聞えて来た。その鉦の音が、彼女の生涯に聞いた如何なる場合の鉦の音と比べても、一段秀れた微妙なひびきを持って居た。御門跡様が御自身叩かれた鉦の音でも、彼女をこうまで有難く快くはしなかった。その鉦の音が後の一音は、前の一音よりも少しずつ低くなって行った。感じられないほどの、わずかな差で段々衰えて行った。それが段々衰えて行って、いつしか消えてなくなってしまったと同時に、おかんの現世に対する意識は、烟のように消失してしまって居た。

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2013/12/19 15:54

 京師室町姉小路下る染物悉皆商近江屋宗兵衛の老母おかんは、文化二年二月二十三日六十六歳を一期として、卒中の気味で突然物故した。穏やかな安らかな往生であった。配偶の先代宗兵衛に死別れてから、おかんは一日も早く、往生の本懐を遂ぐる日を待って居たと云ってもよかった。先祖代々からの堅い門徒で、往生の一義に於ては、若い時からしっかりとした安心を懐いて居た。殊に配偶に別れてからは、日も夜も足りないようにお西様へお参りをして居たから、その点では家内の人達に遉はと感嘆させたほど、立派な大往生であった。

 信仰に凝り固まった老人の常として、よく嫁いじめなどをして、若い人達から、早く死ねよがしに扱われるものだが、おかんはその点でも、立派であった。一家の者は、此の人のよい、思いやりの深い親切な、それで居て快活な老婦人が、半年でも一年でも、生き延びて呉れるようにと、祈らないものはなかった。従って、おかんが死際に、耳にした一家の人々の愁嘆の声に、微塵虚偽や作為の分子は、交って居ない訳だった。
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