分からぬは夏の日和と人心
投稿する検索
315Ryou Firefox
2014/04/11 19:36
「作品を批評して作家の人物評に及ぶことは、わが大日本帝国の文壇に於ては、ちつともヘンではないのである」と、大に見得を切つた批評家がある。
 誰も作家の人物評をしてはならぬと云つた覚えはない。
 憎んだり軽蔑したりしてゐたいなら、その作家が、自分には興味の有つてない、或は興味はもてゝも不満がある作品を発表したくらゐで、何もわざ/\、傍若無人な評言を加へる必要はあるまい。人物評もいゝが、立ち入り過ぎた「人格論」などは慎んだ方がいゝと云つたまでゞある。作品をさういふ立場からのみ見ようとする傾向を僕は好まないと云つたゞけである。

編集削除コピー
314Ryou Firefox
2014/04/11 19:35
 烏帽子の男を太夫と呼ぶんでしたかね。大黒帽はたしか才蔵と云ふんです。
 太夫は歌の拍子を取るやうに、時々才蔵の頭を扇子で叩く。叩かれた才蔵は、お道化た顔をしてなほも唱ひ続けます。あれではさぞ痛からうと思ふほど音がすることがある。才蔵は変な格好をして太夫を見上げる。それでもにやにや笑つてゐます。
 僕は、批評するものと、批評されるものとの立場が、この三河万歳の如くであることを痛感して、いさゝか暗い気持ちになるのです。
 擲る方もいゝ気なら、擲られる方も心得たもの、そこはどちらも商売で、その場限りの愛嬌といふことになるのでせう。

編集削除コピー
313Ryou Firefox
2014/04/11 19:35
 今日行はるゝ文芸批評の多くは世人をして「文学とはかくもつまらざるものか」と思はせる以外に何の役にも立たない。
 批評家は、先づ「文学を愛すること」を教へてくれるべきである。

 のみならず、さういふ批評を読んでゐると「文学者とはかくも軽蔑すべき人間か」と思ふに至るであらう。なぜなら、批評家は作家を競馬々の如く取扱ひ、批評家自身は、己れを文明の埓外に投げ出してゐる。

 諸君は三河万歳といふものを御存じですか。烏帽子を被つた男と大黒帽を被つた男が、一方は扇子を持ち一方は鼓を鳴らし、所謂万歳歌を唱ひながら松の内の門毎を陽気に訪れて歩きます。

編集削除コピー
312Ryou Firefox
2014/04/11 19:34
「御座なり」と「口上」と「紋切型」が、実生活の一部からでも排除された時に、そこに「戯曲的雰囲気」が生じるのである。
 劇作家も俳優も、言葉、動作、表情の韻律的魅力に鈍感である間は、断じて近代劇の舞台に「芸術的生命」を与へることはできず、公衆も亦「舞台に何を求むべきか」を知る前に、実人生の中に新しい戯曲を感じることができなければ、近代劇に対する批評者、鑑賞者であることは絶対に不可能である。

 新しい生活様式、つまり現代日本人の生活中から、動性と心理とを通じて、詩と造形美を感じ得るに至つて、始めて、われ/\は、「われ/\の演劇」を有ち得るであらう。

 諸君は如何に日常生活に於て、型に嵌つた考へ方をしてゐるか。感情のニュアンスを無視した言葉を使つてゐるか。
 諸君の顔面筋肉は如何に硬直してゐるか。諸君の眼は如何に鋭くつても、それは極めて単純な感情を語り得るに過ぎないではないか。
 諸君は道で遇つた友人に何と云つて挨拶をするか。諸君は旅から帰つて来た父親を何と云つて迎へるか。
 数多き言葉が必ずしも一つの場面に生彩を与へるものでないことはわかり切つてゐる。
「めいめいの表現」を有たない生活からは、何らの想像も浮ばない。
 文学は幻象の芸術である。わけても戯曲は、経験に呼びかける暗示の芸術である。
作業服 作業着 専門店
編集削除コピー
311Ryou Firefox
2014/04/04 10:45
 道義の頽廃とかなんとか云つても、もともと道義らしい道義を身につけたこともない人間に、頽廃も糞もない。あるのはたゞ、「道徳の幻」との格闘である。それはもう、実体ならぬ影だと見きはめた人間の自信のやうなものである。
 政治家と官吏と教育者は早くそれに気がついてほしい。そして、当分「道徳」だけを故ら声高らかに叫ばないことである。それは、「平衡」を失してゐるなどといふのは、もう云ふだけ野暮な話である。
          *
 前の手紙に書いた「日本人畸形説」は、いづれその対症療法を述べることによつて結末をつけなければならぬと思つてゐるが、今度のこの「平衡感覚について」は、そこに至るひとつの道順のやうなものである。病理の一端がこれでつかめたやうに思ふ。

編集削除コピー
310Ryou Firefox
2014/04/04 10:44
「交通道徳」とか、「親切週間」とか、「貯金報国」とかその他なになに、すべて国民の「道徳」に愬へようとすることのみに汲々としてゐる有様であるが、国民の方では、またかといふ顔をしていつかう相手にしない。たしかに、国民は、いはゆる「道徳」といふものが到るところに立ち塞がり、眼にちらつきすぎて、それをよけて歩かねば自分の道がはかどらぬやうな気にもなつてゐる。
 要するに、それは実体ではないにしても、ともかく「道徳」といふ観念の巨大な影がわれわれの生活におほひかぶさつてゐることはたしかで、今や日本人の生活には、その「道徳の幻」を追ひ払はうと必死にもがいてゐるといふ一面がなくはない。

編集削除コピー
309Ryou Firefox
2014/04/04 10:44
 道徳はもちろん強調しなければなるまい。しかし、道徳的行為、道徳的言辞、道徳的相貌といふやうなものは、じつさい、真の「道徳」とはあまり関係のないものだと私は思ふ。それにも拘らず、「道徳」の強調がおほむね、道徳的行為、道徳的言辞、道徳的相貌の強調に終始してゐるために、国民は、遂に「道徳」を甘くみるに至つた。仮面の如くこれを懐ろにするものは別として、自ら時として道徳家をもつて任ずることがそれほど「をかしい」ことでないと信ずる向きを生じたのである。市井の俗人が道徳の看板を掲げて得々とし、これをもつて他を圧することはしばしば易々たることであり、あはよくば、これによつて利を占めようとさへ目論むのである。そして、それらは、不思議にも偽善者の後ろめたさを内心感じてゐないやうである。それはその筈である。「道徳」とは人間精神の内奥に生きるものでなくして、外形の装ひにひとしいものだと心得てゐるからである。

編集削除コピー
308Ryou Firefox
2014/04/04 10:44
 最後にもう一つ別な角度からの例をあげてみる。
 それはわれわれ日本人の道徳意識なるものについてである。
 つまり、「道徳」だけはいかに「強調」しても誤りはないと単純に考へる傾向がこれである。道徳教育の面では例の「掛値教育」が生れ、世間的にはいはゆる「感激美談」の流行する所以であるが、人間性なるものの無視がしばしばこれによつて行はれるばかりでなく、人々の行為に一種「平衡」を失した独善的臭味を帯びさせる。
 親切の押売り、馬鹿遠慮、責任感の誇示、愛国心の宣伝、矜持と面子との履き違ひ、厳粛と真面目の混合、慇懃無礼、などがすぐに頭に浮ぶ。

編集削除コピー
307Ryou Firefox
2014/04/04 10:43
「平衡」の感覚は、当然、かゝる風俗を時代と共に淘汰すべきものなのに、われわれは、いくぶん、それと気づいてゐて、瘠我慢を張つてゐる傾きがないであらうか。これもたしかにある。その理由は、あまりに多くのことが「平衡」を失してゐるために、なにかひとつのことだけに骨を折るのは、骨の折り甲斐がないといふこと、ついでに我慢してしまへといふことなのである。これはお互にいちばんわかる気持だが、この「我慢してしまへ」がそもそも「我慢のできる程度」と感じてゐる証拠なのであつて、それがもういくぶん麻痺状態に陥つてゐることであり、更に、これから次第に完全な不感の徴候をあらはして来る前提である。
編集削除コピー
306Ryou Firefox
2014/04/04 10:43
たしかに、日本婦人は、われわれ多くの男性がそれを認めざるを得ないやうに、自ら平等の権利を抛つてゐるところもないではない。かゝる「釣合のとれぬ」恰好はなんびとに抗議をしてもよい、たゞちに廃止を断行すべきであり、それによつて生ずる不便不如意は、男性の責任に於て解決するのが当然である。
 また聞きではあるが、この日本婦人の風俗にはじめて接したある米兵が、「おや、二つ頭の人間がゐる」と叫んださうである。おどけてそんな戯談を云つたとも受けとれるが、「二つ頭の人間」とはよくも云つたもので、これこそ「畸形的なるもの」の見本と云つてもよろしく、我儘や贅沢ではない、子供を背中に縛りつけて外へ出るけなげな風姿は、新日本の家庭から駆逐すべきであらう。

編集削除コピー
前へ次へ