分からぬは夏の日和と人心
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2014/02/06 16:32
尤も、おほかたは出鱈目らしうございますけれどね。追々お躾けを願ふことに致しまして、今日のところは、どんなに仰つしやつていただきましても、結局無駄だらうと思ひますんですが、如何なもんでございませう。先日も申し上げました通り、日頃これには、何一つ、不自由な目を見せたことはございませんのです。宅では決して贅沢な暮しを致してをりますわけぢやございませんけれど、子供だけには欲しいものを与へるやうにいたしてをりました。あんな大それたことをする仲間には、はひつてをりましたが、自分の懐へは一銭もいれなかつたらうと思ふんでございますよ。その代り、根性が曲つてゐるといふ点では、(麦太郎の方を見て)一寸類がございますまい。それと、たちのよくない悪戯を、平気で致しますこと、これはまた、先生、考へても恐ろしくなるほどでございます。
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2014/02/06 16:31
海老子 さうだつたかね……。
院長 中学で三度……。その、なんとかいふ秘密団体は、君が大将だつたのかね。
繭子 副団長でせう。
院長 団長といふのは……? 中学の友達かね。
麦太郎 …………。
海老子 それが、先日申上げました通り、女の子なんでございますよ。まだ十九かそこいらの……。
院長 ああ、さうさう。その女の子と何処で知り合ひになりました。今度は自分で返事をし給へ。
麦太郎 …………。
海老子 お言葉でございますが、この子は、さういふお訊ねに、答へるなんてことは決してしないんでございますよ。どの学校の先生方も、これにはほとほと閉口していらつしやいましたし、先日、警察の方で調べがございました節も、この子だけは徹頭徹尾口を利かなかつたつて、それはそれは署長さんもお腹立ちの様子でございました。親の口から申すのも変でございますけれど、わたくしが訊ねますことだけには、それでも、不精無精返答を致しますんですの。
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2014/02/06 16:31
院長 これですか。これはね、うちの悪戯小僧が、先きへ縫針をつけた吹矢でもつてね、うまくねらひ撃ちをしたらしんですよ。
海老子 まあ、お危い……。
院長 いやはや、油断がなりませんよ。
海老子 それで、そのお子さんは、どうなさいました。
院長 どうもしません。相変らず吹矢を吹いて遊んでゐます。その代り、紙の的をこさへてやりました。
海老子 (感動して)麦ちやん伺つたかい。では、先程のお話でございますが、この前申し上げましたことを、また繰り返すやうになりましても、なんでございますから……。
繭子 母さん、それに、麦ちやんの前ぢや、やつぱり可哀さうだわ。
院長 いや、なに、別に細かいことは伺はなくつてもよろしい。大体承知をしてゐます。それでなんですか、今迄、御両親の手元から離れてをられたことはないのですな。
海老子 ございません。
院長 ない……。学校は何度失策じりましたか。
海老子 小学校で一度、中学で二度……。
麦太郎 三度だい。
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2014/02/06 16:29
院長 や、お待たせしました。
海老子 たうとう連れて参りました。
院長 それはよかつた。一と通り案を立てて置きました。よくまたお話をした上で……。
海老子 はあ、どうぞ何分よろしく……。こちらは繭子と申しまして、麦太郎の姉でございます。
繭子 今度はまた弟が……。
院長 なに、心配なさらんでよろしい。御覧の通り、普通の学校です。家庭です。それと同時に倶楽部です。麦太郎君。そんな方を向いてないで、こつちへ来給へ。
麦太郎 (照れくささうに笑つてゐる)
海老子 お恥しいことでございますが、この年になつて、まだお辞儀といふものができないんでございます。
繭子 できないんぢやないわ、しないのよ。しないことにきめてるのよ。
院長 なにかわけがあるでせう。それに、わたしはお辞儀なんかして欲しくない。麦太郎君、君は学校の科目のうちで何が一番好きかね。
麦太郎 ……。
海老子 さあ、好きなものなんて、ございますか知ら……。
院長 一寸、黙つて……。え? なに?
麦太郎 まだなんにも云やしねえ。
長い間。
女事務員、茶を運んで来る。音楽止む。
院長 ぢや、麦太郎君との話はあとにして、何かまだ伺つとくことがあれば……。
海老子 はあ、それやもう、申し上げればきりがございません。何時ぞやお耳に入れましたことは、ほんの緒だけでございますから……。麦ちやん、お前もそこで聴いておいで。母さんが今から先生にお話しすることは、ただお前のためを思つてなんだからね。お前の今迄したことを、残らず先生に聴いていただいて、直すところは直していただくやうにしなけれやね。余計なことを云ふと思つて、母さんを恨んぢやいけないよ。それはさうと、先生、お眼をどうなさいました。
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2014/01/26 21:55
「いゝなあ。そいつは……」
と、幾島は彼女の気持を引立てるやうに云つた。
門のところまで来ると、誰かが急いで彼の手からトランクを奪ひ、それを自動車に積み込んだ。
「こつち、斎木さん……荷物はそれだけですか?」
田沢がそこで指図をしてゐた。
みんなの座席がきまると、田沢が出発の命令を下した。
黒岩万五が、手をあげて、先頭の霊柩車に合図をした。
霊柩車は重くゆれながら動きだした。
黒岩万五はそれを一瞬、不動の姿勢で見送つて、すぐに、その次ぎの車の踏台へ飛び乗つた。
「汽車には間に合ふだらうな」
田沢が車の中から訊ねた。
「右へ大きく廻つて、大きく……」
黒岩万五は、それには答へず、先頭の運転手に向つて呶鳴つた。
「万さん、汽車には間に合つて?」
素子が、また、同じ車の中から声をかけた。
すると、黒岩万五は、はじめて気がついたやうに、腰をかゞめて車の中をのぞき込み、いかにも彼女にだけ返事をするといふ調子で、
「さあ、その方は、わし一人ぢや受け合ひかねるね。なにしろ、やつと車を谷へ墜さずに来ただから」
幾島暁太郎は、ふとその会話を耳にはさんだ。そして、なんとなく、この二人の間に自然な感情のつながりがあるやうに思へた。その自然な感情のつながりといふのは、例へば、体裁も遠慮もいらぬ間柄で、特に相手の気持を呑み込んだ話のしかたをするやうな場合に、それがはつきり表面にあらはれるものだと彼は信じてゐる。
彼は、雪の山道を征服しつゝ、素子の讃嘆と感謝を浴びようとする黒岩万五に、少年のやうな嫉妬を感じるのであつた。
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2014/01/26 21:55
「あなたは、さうすると、やつぱり、この別荘のひとだつたんだなあ」
と、感慨をこめて、幾島暁太郎は云つた。
「……つていふと、どういふこと?」
素子は雪を掻いたといふよりも、踏み固めた道の上へ草履をそつと置くやうにして歩いた。
「今かうして、あなたの出ていらつしやり方をみると、いかにもいろんな思ひ出をたくさんこゝへ残して行くつていふ工合ですもの」
彼は素子のトランクを持つてやつてゐた。誰もかまふものがなかつたからである。
「さうかも知れないわ。東京にゐるときよりも、こつちへ来てるときの方が、あたくし、ずつと元気で子供のやうになんでもうれしかつたわ。欲しいものがいくらでもあつたり、人のなんでもないところが立派にみえたり……」
顔はうしろからで見えないけれども、さういふ素子の声は、決して浮き浮きしたものではなかつた。
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2014/01/26 21:55
彼は、ぷいと座を起つて玄関の方へ出て行つた。
はるか門の方でエンヂンの爆音と、誰かが喉をからして叱咤する声が聞える。
黒岩万五が、先頭の霊柩車の前につかまつて、陸上の水先案内を勤めてゐるのである。なるほど、斜面全体を覆つた雪が道の幅を曖昧にしてゐるうへに、十人あまりの雪掻きの人夫も、彼の指揮がなければ有効な作業は覚束ないことがわかつたのである。
「やつぱり砲兵だけあるんだな」
と、幾島は露台に立つて、傍らの素子を顧みた。
門の中では車を廻すことができぬとわかり、門までみんな歩くことになつた。それはいゝとして、柩をそこまで運ぶ段になると、これも黒岩万五の力を藉りなければならなかつた。
事務所の前の広場には、土地の人々が礼装で見送りに来てゐた。
素子は、玄関を出がけに、幾島に別れを告げた。
「では、いづれ東京でお目にかゝりますわ。あなたには、いろいろ聴いていただきたいこともあるの……。この別荘もこれで見納めだわ」
幾島は、その時、はじめて素子の眼のなかに深い悲しみの色を読んだ。
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2014/01/26 21:54
「あなたは、失礼だが、どなたでしたつけ?」
と、田沢元代議士は、心細い挨拶である。
「幾島です。昨日粕谷さんに紹介していただいたばかりですが、まあ、それやいゝです。植物の方をやつてる関係で、今年の夏、大沼博士のお伴をしてこちらの別荘でご厄介になりました。泰平郷の建設にはいろんな意味で非常な興味をもつてゐます」
「いやあ、それやどうも……。まあ、そこへお掛けなさい。ふむ、さうですか……。立花伯といふ相棒をなくして、わしもがつかりしてゐます。なにしろ、かういふ事業は算盤を弾くだけぢや、まるで意味をなさんですからなあ」
「大へんいゝことを伺ひました。田沢さん、泰平郷の画期的な事業の性質についてですけれども、ひとつ是非、これは地元農村の将来といふことと関連して考へていただきたいのです。僕からなぜかういふことをあなたに申上げるかといふと、地元の青年たちの正当な要求が、あなたの配下の事務員の手心で、甚だ軽々しく扱はれてゐる事実を、僕は知つてゐるからです。例へば、この夏から問題になつてゐる水源地の権利のことでも……」
幾島は場所柄を忘れて、熱心に説きはじめた。
「ちよつと……」
と、田沢は片手で彼の言葉を抑へ、
「なるほどさういふ事実もあるでせう。わしもつい暇がなくて、その、自分で現場を見てをらんもんだから……。今日はまあしかし、その話はいゝでせう、かういふ際ですから……。あ、自動車が来たやうだな」
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2014/01/26 21:54
しかし、空はからりと晴れてゐた。
東京の本邸から来た女中と、土地の手伝ひの女たちが、もう朝の食堂の支度を整へてゐた。
伊賀男爵と田沢元代議士がストーヴの前でひそひそ話をしてゐる。
そこへ、茂木の番頭が粕谷主任と一緒にはひつて来て、高崎から、今、霊柩車と乗用車二台がこつちへ向つたといふ事務所への電話を知らせて来た。
田沢はポケツトから手帳を出すや否や、
「二台ね、待つてくれたまへ。座席が二五ノ十、助手台は駄目として、どうやら間に合ふな。少し窮屈ぢやが……。男爵はこゝの美人秘書とひとつご一緒に……」
素子がそこにゐるので、首を縮め、そのまゝ鉛筆の先をなめ、車の振当てを決めた。
幾島がそばから口を出した。
「道がこの雪でどうでせうか? 車は大丈夫ですかねえ?」
すると、粕谷が胸を張つて答へた。
「それはご心配に及びません。只今、人夫を総動員して雪掻きをやらせてをりますから……」
八時が鳴つた。
来る筈の自動車はまだ来ない。
食事を終つたものから順々にポーチへ集まつた。
東の陽をいつぱいに受けて、こゝは日光室のやうに暖かであつた。
「田沢さん、僕ちよつと、お話があるんですが……」
どつかりと籐の寝椅子に倚りかゝつた田沢元代議士をつかまへて、いきなりかう話しかけたのは幾島暁太郎であつた。
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2014/01/26 21:54
「これで風向が西へかはると、雪がみんな谷へ吹つこまれて、道にや積らんことになるだが……さあ、この分ぢやどうだかね」
さう云ひながら出て行かうとした。
「万さん、今夜あんたすこし寝むといゝわ。さうあんたひとりで何もかも……」
と、素子はいたはるやうに云つた。
「なあに、二晩や三晩起きてたつてどうもねえですよ。それより、幾島さん、あんたの部屋にや火がねえだね、まだ……」
「いゝんだよ、黒岩君、僕は、こゝでかうしてると、いゝ気持なんだ。別に手伝ふ用件はないし、邪魔にならないやうにしてゐるんだから……」
幾島は、椅子の上で、肱をすぼめてみせた。
素子は食事をしをはると、一旦自分の部屋へはひり、明日の荷ごしらへをしかけたけれども、夏の生活の為に、今迄ぼつぼつ運んだ品物を、みんなこの際持つて帰るわけに行かぬことに気がついた。
――もう一度来られるか知ら? 来られなかつたら、万さんにでも頼んで送つて貰はう。
自問自答しながら、やつと、手廻りのものだけをトランクにつめた。
その夜、彼女は、幾時間かの浅い眠りの後に、眼を覚ました。
黒岩万五の言葉どほり、山も谷も一面の雪であつた。