分からぬは夏の日和と人心
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2014/01/19 21:57
A・O嬢へ
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映画会社から委託という形式で劇団××座の研究所へ籍をおくことになったというご通知に接し、それが誰の示唆によるものにしろ、あなたにとって、まずまず結構なことだと思います。
いずれの映画会社でも、かねがね新人の育成を心掛けているようですが、映画俳優の基礎的な訓練を満足に実行しているところは、今のところ、どこにもないというのが実情で、さればこそ、最近では、当人がそれを望み、会社側もまたそれが有利だと思えば、信用ある劇団の特別研究生として、映画のニュウ・フェイスを一定期間、その劇団で委託教育をしてもらうという方法を講じているのですが、これがうまくいけば、相当の効果があがる筈です。
しかし、お手紙によると、あなたは、ここで、またまたひとつの疑問にぶつかった、ということですが、その疑問を僕が完全に解き得るかどうか、試みにペンをとってみました。
あなたの疑問を要約すれば、こうですね。
204Ryou 
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2014/01/19 21:57
なにか、互に、不信、軽視、敬遠の姿勢で、相対し合っている傾向が強いのはなぜでしょう?
君の現在の不安、懐疑は、かかる風潮への不安、懐疑かも知れぬし、また、かかる風潮が生んだそれかも知れぬ、と、僕は、なんだか空おそろしい気がしだしました。
君などとまるで違って、どんな雰囲気のなかでも、のほほんとしていられる青年たちもいるにはいます。
しかしまた、君とおなじ悩みながら、それを口には出さず、一歩一歩、障碍と戦いながら、理想は現実に取って変るものではなく、それは永久に、辛うじて現実の支えとして役立つに過ぎぬことを知り、如何なる混乱のなかでも、自分の道を清潔に生きぬこうとする青年がいるとしたら、君は、その青年と手を握るつもりはありませんか?
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2014/01/19 21:55
SEO対策無双におまかせ
SEO対策無双はSEOの業者のうちの一つです。こういった業者の中の良し悪しを、一般の人が判断することは非常に難しいものがあります。そもそもネットの世界は専門性がかなり高いので、外部の人からすれば何をやっているのかさっぱりわかりません。
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2014/01/08 15:43
* 信長も秀吉も、今日で云へば、成金的成功者であつたから、その時代の文化も、亦、絢爛豪奢を極めたものだつた。いはゆる、安土・桃山時代の文化である。
信長の安土の城は、天正四年から七年まで、巨万の財を費して作り上げたもので、戦争の為めの城と云ふより、寧ろ、華麗な邸宅だつた。三つの丘の真中の七重の天守閣の頂には、金の鯱鉾が朝日夕日に輝いてゐた。屋根瓦には、漆を塗り、金粉をまき散らした。襖はいづれも、金地で、狩野永徳らが牡丹に唐獅子といつた風な、思ひ切つて華美な絵を描いた。
秀吉が、諸大名に命じて築かせた大坂城は、周囲三里に余る大城郭で、八層の天守閣を中心に、華美を極めた建物が立並んだ。聚楽第も、絢爛眼を奪ふものだつた。
従つて、彫刻も独立した美しさを持つたものよりも、豪壮な邸宅寺院などの建築美にそへる装飾彫刻が盛んになり、左甚五郎などゝ云ふ名手が出た。
絵画も、狩野永徳・山楽、土佐光吉・光則・光起など彩色目もまばゆい程の華麗なものを描いたし、墨絵も、大幅で、華やかなものがもてはやされた。
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2014/01/08 15:43
信長は荒木村重との初対面に、刀で餅を刺して、壮士ならこれを啗へ、と云つて突き出したが、後年叛かれてゐる。秀吉は九州島津氏の猛将鬼武蔵(新納武蔵守忠元)との初対面で、主家のため最後まで戦つた忠節を褒め、当座の賞として薙刀を与へた。渡すとき、自分は刃の方を持ち、武蔵には石突の方を向けて出した。匕首を懐にしてゐた武蔵も、思はずハツと平伏して、薙刀を押し頂いたのである。
信長は畏服させたし、秀吉は悦服させた。そして家康は、智慧の力で服従させてゐる。
家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、「貞観政要」を印刷させてゐるし、その後も「吾妻鏡」を刊行させてゐる。さらに元和元年、大坂方と対戦中に、「群書治要」を刊行させてゐる。彼の学問好きは、学問の骨董的価値を賞翫するのではなくて、先人が残した治国平天下の要綱に対する研究心から発してゐるのである。秀吉に圧倒的な人気があるのは、よく分る。しかし、わが国二千年の伝統を捉へて、そこに自家の政治の根柢を求め、徳川三百年の太平をかち得た家康は、やはり近世的な大政治家たる資格の所有者と云はねばならないと思ふ。しかし、皇室に対する態度では、秀吉が一番よい。聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎へ奉つたことは、どんなに皇室の貴むべきかを当時の天下に知らしめたか分らない。信長も皇室の貴むべきことを心得てゐた。家康は、その点で一番劣つてゐる。
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2014/01/08 15:42
もし家康が応仁の乱時代に生れてゐたならば、精々細川か山名の一将で終つたかも知れない。又、信長が家康の時代に出てゐたら、叡山や本願寺を焼打したりして、日本のネロとして悪名だけを残したかも知れないのである。
叡山の山僧の跋扈は、歴代の朝廷も将軍も手を焼き、国政上の大患だつた。信長は、この末世の悪僧共が浅井、朝倉と通謀して彼の大志を妨げようとしたから、徹底的に焚滅し、永年の禍根を絶つたのである。新井白石の「読史余論」は、これを信長の大功の一にさへ数へてゐるのである。
信長は一切の旧きものの破壊に続いて、直ちに建設に着手してゐる。皇居の造営、首府たる京都市街の復興、検地、金山銀山の経営、朝鮮との外交政策等を見ても、決して単なる癇癪もちの荒大名ではない。頭脳的にも、創意に満ちた英雄であつた。彼の茶と学問の奨励は、元亀天正の荒武者たちの品性を高めるためであり、同時に、幼時から粗暴と云はれる自らの性行の反省修養のためであつたとも考へられる。
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2014/01/08 15:42
信長は気象の荒々しい性急な乱世的英雄で、彼の活躍は実に目覚しかつた。秀吉は戦国的英雄であると同時に、実に平和を愛する英雄であつた。戦国百年の焦土の上に、絢爛たる桃山時代を出現させたのは彼である*。家康は信長のやうな目覚しさはないし、秀吉のやうな華やかさもないが、実に緻密で組織的で建設的で、近代的な英雄である。この三人の性格を比べると、秀吉と家康は、信長に比し、滅多に人を殺してゐない。政略以外には、人を殺してゐない。秀次の妻妾を殺したことは、秀吉の晩年の過失である。秀頼母子を殺したのは、家康として政略上止むを得なかつたのである。それ以外は秀吉も家康も、人を殺すことを嗜んでゐないのである。
結局、英雄といふものは、時代が生むのだ。世の中が真に必要に逼られてゐる大事業を遂行する人物が英雄なのである。信長も秀吉も家康も、それ/″\、大きな社会的需要に応じて現れて、独自の役割を果した人物で、真に英雄である。
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2014/01/08 15:42
天正十二年には、秀吉は統一の功を急ぐために徳川家康と同盟し、一方では長曾我部元親を降して四国を平げ、上杉景勝と和して北国を定め、島津義久を討つて九州を従へた。
越えて天正十八年三月、自ら大軍を率ゐて北條氏を小田原に攻囲して之を滅し、関東を平定したが、その陣中に、奥羽の雄伊達政宗が来降し、こゝに天下は全く統一したのである。
足利時代は暁暗期である。その中から生気に満ちた近世の朝は明け初めて、豪快な戦国の舞台は展開したのだ。そして、信長と秀吉と家康は、満身に照明を浴びつゝ相踵いで登場して、英雄の名を攫つてしまつたのである。
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2014/01/08 15:42
この時、中国毛利氏と対陣中の秀吉は、すぐさま媾和して、神速飛ぶが如くに引き返し、摂津山崎の一戦に、光秀を討ち取つた。叛逆後わづか十三日にして、光秀は滅んだのである。三日天下の称がある所以である。光秀の叛逆は、下剋上の最後の場合だつたが、近世に近いのと、相手が大物であつただけに、主殺しと云つた悪名を、相当以上に受けてゐる。
独力で主君の復仇戦を遂げた秀吉の声望は、一時に加はつた。近畿の諸将は、先を争つて彼の麾下に集つた。織田家の宿将たる柴田勝家や滝川一益は、心中甚だ平かでない。やがて勝家は、賤ヶ岳で秀吉と戦つたが惨敗し、越前の北庄の本城に逃げこみ、遂に滅亡した。
天正十一年五月、秀吉は諸国から大木巨岩を集め、三十余国からの人夫を使役して、大坂に大規模な築城工事を起し、翌年の八月に殆んど竣工した。金城鉄壁、難攻不落の堅城であり、荘厳壮麗、天下統一の覇業を期する秀吉の理想を象徴した名城でもあつた。秀吉は築城と同時に、大都市建設の計画を立てて、堺や伏見から商人を移住させた。
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2014/01/08 15:42
氏康逝き、信玄歿し、関東は謙信の独舞台となつたが、彼も亦、天正六年三月西上の軍を発するに先だち、俄に卒去した。信長に取つては重ね/″\の天幸と云はねばならない。
豊穣な濃尾の地利に培はれ、人文に育まれた英雄児信長は、遮るものあらば性来の勇猛心で撃砕した。しかも、彼を脅かす東国の諸豪相次いで世を去つたので、彼の天下一統は必ず近きにあり、と自他共に信じてゐたが、測らずも、十七年間重用し来つた家臣光秀のために、京都本能寺に於て、弑せられた。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如く也」、彼の平素愛誦の謡のごとく、五十に満たぬ四十九歳で、いかにも乱世の英雄らしい最後を遂げたのである。